役に立つを考えてみる
おはようございます。
昨日の「かわいいと暮らす」でこんな事を書きました。
役立たずにとって肩身が狭い世の中で(何を持って役立たずというのか、本当に役に立たなきゃいけないのだろうかとかは置いておいて)
これについてちょっと考えてみました。
私がまだ小学生のときです。
学校の先生がこんな事を言いました。
「役に立たない人はいません。なぜなら雑草だって何かの役に立っているからです。」
大体こんな事を言っていたと思います。
そこで私は素直に、
「そうかー、私も何かの役に立てるんだ。役に立つ人にならなきゃ」と思ったのです。
で、今になって思うのですが、
雑草を馬鹿にしちゃーいけないぜって事です。
雑草なくしてどの生物も命を繋ぐことは出来ないからです。
私達の食事も雑草のお陰。
雑草を草食動物が食べ、草食動物を肉食、雑食の動物が食べる。
肉食雑食の動物が死んで土に還り、それを栄養に草木が生えて、酸素と水分を供給する。
空気中に放出された酸素と水分はやがて雲になり、雨になって地上を潤す。
薄っぺらな私の知識でも雑草が大事な植物だってことはわかります。
で、もう1点、
実はここが一番気になっている点です。
「役に立たない人はいません。」
人間って絶対に何かの役に立たないとダメなんですかね。
役に立つ立たないの基準って何でしょうか。
Aさんにとっては役に立つ人でも、Bさんにとっては役に立たないかもしれません。
たとえば、
文章や編集作業にパソコン、スマホはなくてはならない物ですが、停電や電池切れにはまったく役に立たないです。
文字通り役立たずになってしまいます。
反対に紙とペンは時間と手間もかかるうえに、出来る作業が限られています。
でも停電や電池切れの心配はありません。
使う人も選びません。
役に立つ人になりたい!なるぞ!!と思う気持ちを否定はしません。
良い事ですし、やる気も上がります。
でも、
役に立つ人になれ!とか、役に立たない人はダメ!とかは、
それは誰にとっての役に立つ人なの?と思ってしまいます。
だからと言って、
家族に寄生やDVをしていてもいいのかと言うとそれは違います。
生まれたからには役に立つ人になるべきだと荷物を背負わせるのではなく、
一所懸命がんばった結果が、人の役に立つのであれば良かったねと、
一緒に喜んであげればいいだけなのではと思います。
一所懸命がんばったけど結果が出せないのであれば、
ダメねーではなく、ドンマイドンマイと一緒に残念がればいいだけなのではと思います。
ただ、
先の先生は役に立たなきゃダメ人間と言いたいのではなく、
子供達に夢や希望を持って成長して欲しいという気持ちから言ってくれていたと思っています。
(大人が子供に夢や希望をたくす的な発言もあまり好きではないですけど。)
結局なにが言いたいかと言うと、
役に立つ、立たないというキチキチの箱につめるのではなく、
布の袋にいれてゴロンゴロンと動くくらいでいいんじゃないのと思ったのです。
こんな事を書いている私はと言えば、
先の先生の言葉にまだこだわっていて、抜け出せずにいるままなので、
自分自身に言い聞かせる意味でもこんな事を書いています。
それでは良い1日を~
YouTubeで見つけた動画です。
この破壊力、何かの役に立つのだろうか?
別に立たなくてもいいんじゃないの?
楽しいから。